無題(仮)

 もし、と僕はよく考える。
 それは、もし宝くじが当たったらとか明日地球が滅びたらとか、そういう非現実的なことじゃない。もっともっと現実的な。
 もし今この手で目の前に居る見ず知らずの人の背中を押して、迫り来る電車の前に突き落としたら。もしここから身を投げたら。
 そんな限りなく現実に近い仮定。
 僕が一歩、道から降りれば現実になる。

 沸いてくる小さな小さな衝動を、僕はいつものようになんなく鎮めた。
 歩いて近くの駅までやってきた。どうせ暇だからと切手を買った。一番安い切符だ。
 ホームに立って電車を待つ。
 人はまだらだが、無人ではなかった。まあ席には座れるだろう。

 大西が突然変なことを言い出したせいで、僕の頭の中では、とても家族の前では話せないような恥ずかしいことばかりがまわっていた。
 生きることも死ぬことも、僕にはあまり興味がなかった、……なんて言ったら格好いいだろうか。
 興味があるといえば、死んだ後のことだ。
 僕が死んだとき、この世界はそんなに変わらないだろう。
 だけど僕の周りはたぶんぐるっと一変する。
 花畑に居るのか、はたまた何もない宇宙のようなところに放っぽり出されるのか。考えても決してわかることはない。僕が生きている以上は。
 こういうことを考えるのは楽しい。
 知らない世界。知らない歴史。
 考えるだけでわくわくした。

 ホームに案内放送が響く。
 程なくして電車がホームに滑り込んだ。
 ドアが開き、出てくる人もいないのでさっさと乗り込む。
 平日の午後の車内は、それはもう静かだった。

 ようやく暖かくなってきた春の日差しを受けて、うつらうつらとしながら窓の外を眺めた。同じような景色が通り過ぎていく。
 眠ってしまわないように、一度姿勢を正す。寝過ごすと大変だ。
 あまりに雰囲気がのんびりとしているから、時間でさえのんびり進んでいる気分になった。五分ほど、経っただろうか。
 三つ目の駅で降りた。次の駅まで行ってしまうと、料金が上がるから。
 降りたこともない駅だが、その様子は過ぎてきた駅とさほど変わらない。
 小さな売店でグレープのガムをひとつ買って、一枚取り出し口に入れる。甘いグレープの味が口の中いっぱいに広がった。
 そこで、携帯をマナーモードにしたままだったのを思い出した。
 開けてみると、一通のメール。案の定、大西からだ。
 それに返事をしようと返信のボタンを押した、そのときだった。


 大きなクラクションとブレーキ音。
 叫び声も、聞こえた気がする。


 「――ッどこ見てんだ! 気ィつけろッ!」
 「…………す、みません」
 大量の汗が全身から噴出す。冷や汗だ。
 僕は横断歩道の真ん中で、尻餅をついたまま、どくんどくんと大きく波打つ胸に手を当てた。治まる気配はない。
 とにかくここに居てはまずいだろう。僕は震える足で立ち上がり、横断歩道を渡りきった。

 死にたいと思ったことはあるが、死のうと行動したことも、ましてや死に直面したこともなかった。
 あんなに死のすぐそばまで近づいたことなんて初めてだった。
 それは想像を超える恐怖だ。いや、恐怖なのかもわからない。経験したことのない感情。
 僕の体はまだ、震えていた。

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